わたしたちの物語

一心舎の創設

與一郎は明治39年(1906)に船渠(ドック)や機械製作、造船業視察のために渡米・渡欧した。翌年に帰国し、明治37、8年に廃業した造船業の復興を考えたが、岡崎の実兄の勧めもあって造船業復興を断念した。生計を立てるために與一郎は、長い米国生活で身につけた英語を生かして通訳や梅村学園の英語教師をしていた。教材や資料を謄写版で作成しているときに謄写版の将来を予見し、謄写版の研究を始めた。滋賀県の堀井新治郎・耕造父子が明治27年(1894)に鉄筆製版の謄写版を発明し、明治30年代は謄写版が全国的に広まった時期である。與一郎と堀井父子との間に接点があったかどうか分からないが、造船業を廃業した與一郎は謄写版業に身をおくことになった。

当時市販されていた謄写版原紙の多くが鉄筆で字を書くと指先が疲れたり、インクの通りが悪くかすれたり、孔がロウでつまることがよくあった。與一郎はその点に着目し、謄写版原紙改良のために雁皮紙(雁皮の樹皮を原料にした和紙でロウ原紙の材料)の紙漉き現場を訪ね歩き、四国で謄写版原紙に適した雁皮紙を得た。大正6年(1917)に「一心舎」を起こした與一郎は、その雁皮紙に工夫を重ねたハートマークの「一心舎謄写印刷原紙」の開発に成功し、世に送っている。さらに、謄写印刷に使われているローラーにも目を向け、ロウ原紙に書かれた原稿を忠実に転写するには市販のゴムローラーでは柔軟性に欠けるとして、ゼラチンローラーも開発した。與一郎には3男4女の子があったが、子供たちは成長するとともに「一心舎」の担い手となった。

一心舎の謄写印刷講習会

大正6年(1917)に創業した一心舎はその年にハート原紙を開発し、大正11年(1922)には、岡本父子が一心舎文字(謄写印刷文字)を考案した。

大正13年(1924)に第1回一心舎式謄写印刷講習会(会場:碧南國民学校)が行われた。これは謄写印刷技術の普及と自社製品(原紙や鉄筆等)の販売促進を兼ねて開かれたものである。講師陣は岡本與一郎と・栗扶・万利の3人の息子で、三女・あきゑと四女・七子は販売を担当した。

昭和6年(1931)には第50回の講習会が開かれたが、年6回以上の割合で講習会が行われたことになる。昭和8年(1933)7月には愛知県教育会と碧南國民学校共催、一心舎謄写印刷研究会後援の講習会が行われ、受講者は80人以上であった。碧南國民学校の講堂で講義のあと、実習室で実技講習が行われている。また、別室にはハート原紙や文具類の即売所も設けられた。

昭和25年(1950)には棚尾中学校を会場に講習会が行われている。講習会ごとに受講者の作品をまとめた「謄写作品集」を発行するなどして一心舎は謄写印刷の普及に努め、官庁や学校等に利便を与えた。

一心舎(岡本社長時代)の営業種目

岡本與一郎の長男功が社長の頃の一心舎の事業は営業部、印刷部、研究部の3つの部門に分かれていた。営業部では、ハート謄写版・ハート原紙・ケイザイ原紙・一心舎ヤスリ・ハートインク・各種付属品・高級文房具・製造販売等。印刷部では、各種教科書・文芸雑誌・会報・研究物・予算や決算書・地図・ポスター等の印刷業務を行っていた。また、研究部では謄写印刷技術講習会の開催・講義録発行・謄写印刷法普及等がその主な事業内容であった。

一心舎製「ハート原紙」への思い

『 心のまこと 』より

昔此の大浜の里に加藤四郎左衛門の妻で菊女と云ふ方がありましたが、本當に婦道にかなった立派な女でありました。或るとき、夫の四郎左衛門が事の間違より罰せられて伊豆の大島へ流されました。島の四郎左衛門はよくお上の規則を守っておりましたが、何分遠い所ですから妻の菊女と行會ふこともかなひませんでした。

お菊は18歳の時でありましたが、日々これを歎き、どうかして夫が無事に帰る様にと此の熊野神社へ祈りを上げました。そして、垢離を取り、雨の降る日も風の吹く日も霜も雪も厭はず、跣足詣りを致しました。

又一方、法華經の一部を金文字で写すなど、熱心に夫の免さるゝのを神佛に祈願をこめました。或る夜の夢に、此の御経に手紙を添へて海に流さば夫に達するとの御告げを受けましたから、喜んで直ちに水の入らぬ様に包んで此の海岸から流しました。

島の四郎左衛門は、或る日海岸に出て魚釣をして居ました。そうすると、木片が1個自分の釣糸のところへ寄りました。邪魔になるから向ふへ押しやりましたが、又寄って来ました。いくら押しやっても寄って来ますから仕方なく取り上げて見ますと、不思議や之れは妻の菊女の一念のこもった法華經と手紙でありました。四郎左衛門は驚いて飛立つばかりに喜んでおし頂き、再三之れを読み返しました。島の役人は之れを聞いて調べて見ると、如何にもこの不思議なことと、どれ程妻の菊女が夫を思ふ一念の強いかに感じてお上に申上ました。

碧海郡大濱町一心舎

時の将軍も大いに感じ入り、四郎左衛門の罪を免されまして大浜に帰る事が出来ました。菊女は大層喜んで神恩を謝しますために、六歌仙の画像や和歌を作り奉納し、また四郎左衛門は發起人となって莫大の金子と木材を寄附して社殿を改造し、基本金百両を奉納致しました。菊女は学問もあり、歌道のたしなみもあり、後世人の鏡となる様な行がたくさんありました。

私どもは之れを手本として自分々々の本分をつくすことに一心にならねばなりません。今は此の大浜の土地に一心舎と云ふのがありまして、謄写版のハート原紙と云ふものを作って売出して居ります。此の原紙は一心になり考へたものでありますから、綺麗に刷れて使ひよいのであります。原料や其の他の生産費から云ふと、割安に売って居るのです。使った人は皆な御存じです。社会から大層賞賛を賜はりましたから、一心舎は皆様に御禮のためこの印刷見本を差し上げますから、読んでそうして世間の人々へ御傳へ下さい。

表紙

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裏表紙

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